働くと言うこと
私たちは なぜ 働かなくては いけないのか 考えて みたいと
思います
毎日 毎日 工場 職場の門を くぐって 現場に 入り 作業を繰り返し 毎月 給料を もらって
いるのは なぜでしょうか
ここで 労働とは 何か と 考えてみたいと 思います
昔 ヨーロッパ並の 賃金を!!と デモを している 事が ありましたが
ヨーロッパ 西欧では 労働を 次の様に 位置づけています
T.
懲罰としての労働 罪人 罪としての 労働
U.低い地位の しるし としての 労働
V.物を 作り出すことを 喜びとして行う 労働
W.遂行される 一連の任務としての 労働
結果を持って 人を見ると言う考え方の 労働
X.収入 忙しさ 地位 等の 自己完結の源泉としての 労働
X.については もっと 考えて みたいと 思います
一つの日本映画は、従業員の個人的生活がどのように彼等の動機に影響するかについて
一つの事例を提供しています。その劇映画の主人公、渡辺さんは、ある市役所の下級吏員で
した。その市役所における 一般的空気は、役人に対して事なかれ主義をしているようなもの
でした。すなわち、規則をよく守り、他の部門の権限を尊重し、なにごとによらず、目立つことを
避けるように、役人は要求されていました。渡辺さんはすべてこのようにしていました。ひそかに
“ミイラ”と呼ばれる程でした。その後、渡辺さんは、致命的な病気にかかり、まもなく死んでしま
うであろうことを知るようになりました。こうなると、自己保存の必要は大きな重要性を持たなくなり、
自己完成に対する彼の衝動が前面に押し出してきました。そのころ、市のある住民たちは公園
の設立を要求しており。その公園を作るために他の部門の権限を侵し、上級者の権威に挑戦し
てまでも、渡辺さんは熱心な主唱者となったのでした。渡辺さんは 公園のブランコで 「命短し
恋せ乙女よ….」と歌いながら 静かに 息を 引き取ったのです。渡辺さんの お通夜の場面
で 役人たちは 私たちだって 命が はっきりしていれば もっと 仕事を したのに と
口々に 話して いました 人間は 本当に 先が無ければ 自分の生きた 証として 仕事を
していくのでしょうか 今 自分たちが 働いているのは 次のどのためであるか 考えてみたい
と 思います。
〔注〕東宝映画“生きる”黒沢監督、三船敏郎、志村喬主演1952年作品
◆
“労働とは何ぞや”
私たちは なぜ 働かなければ ならないのでしょうか
(1)収入の源泉
原始時代の ぶつぶつ交換からの 収入として 生きるための最低の
収入のための 労働として
(2)忙しさの源泉
時間のたっぷりある人は、その時間をふさげるように、事をこしらえなければならないと
いう大きな問題に当面する。(子供が大きくなってしまった母親も、同じような問題に
ぶっつかる。)いつも忙しさを保ために、できあいの計画を提供することによって、
労働はこの問題を解決するために多大の貢献をする。この貢献の重要性は、失業者に
よってよく理解されている。
就業している労働者もやはり一つの問題に当面する。産業界の仕事は、以前の仕事より
も週当たり少ない時間を必要とするに過ぎない。したがって、産業人はより多くの閑な時間を
持ち、この閑な時間をどうするかという問題が起こってくる。
“退職した”人々は、彼等が当然あるべきものと思っていたもの、すなわち仕事に取って
代わるべき忙しさの源泉を見付け出すという特殊な問題に当面している。
(3)他の人々との提携協力
これはいろいろな形をとっている。たとえば、
(a)産業的隣人との友情。
(b)同僚が構成しているグループのメンバーとなること。
(c)部下と上長との関係。
これらは“所属”という社会的必要である。労働しているかいないかにかかわらず、
それは人生の重要な一部である。
(4)地位の源泉
すべての社会は例外なく、個人の地位に冠する制度〔注参照〕を発展させて来ている。
この地位によって、個人は自尊心と他人の尊敬とを得ることができる。 一つの仕事を
保持することがまさに、その保持者に彼を失業者からの区別する地位のバッジを与えるもの
である。その上、仕事の必要事項(訓練、熟練、責任等々)が、就業の間にさえ地位の
制度の基礎を提供してきている。このような仕事の地位の制度は、例外なくあらゆる
社会に存在している。
(5)自己完遂の源泉
人はそれぞれに、人生における各人の使命は何であるかということについて、また、思索し、
創造し、遂行する各人の能力はどんなであるかということについて、それぞれ自分自身の
見解を持っている。これらの見解は、各個人が自身もっていると信じている才能の最大限度
まで自己完遂を求め行なう努力の中に表現されるものである。この自己完遂は、発明、
自己表現、他人に対するサービス、新しい経験、挑戦している諸問題の解決等々、
いろいろな形態の実を結ぶものである。
われわれの産業社会がこの自己完遂の要求に対して非常に高い優位性を与えているか
どうかは、非常に疑問である。産業的仕事の大部分のものは産業人にとって意義深い
ものではないということは、驚くべき事実である。この意義がなければ、仕事は人生に
目的を与えるにも役だたず、新しい各種の経験の源泉をも提供しない。
私のお話が皆さんの工場管理を、耕し続けるヒントになれば幸いです。